Umbrella Paradeについて考えていたとき、「他人軸」と「自分軸」の話が出てきた。
夢に向かって動けていないとき、僕は他人を見てしまう。
「あの人はもっとやっている」
「自分は全然進めていない」
そんなふうに比べて、自分の価値まで下げてしまうことがある。
だったら、他人軸ではなく、自分軸で生きればいい。
言葉にすると簡単だ。
でも、僕はそこで引っかかった。
他人を見ることって、本当に全部悪いことなんだろうか。
夢を叶えたいなら、自分より先にいる人を見ることで、自分が目標からどれくらい離れているのか分かることもある。
人に何かを届けたいなら、相手が何を求めているのかも考えなきゃいけない。
マーケティングをするなら、なおさら自分のことだけを考えているわけにはいかない。
じゃあ、
「自分軸で生きる」って、一体何なんだろう?
Umbrella Paradeの記録者・アマモリと、一緒に考えてみることにした。
自分軸って、「他人を気にしないこと」なのか?
「他人軸じゃなくて、自分軸で生きよう」って聞こえはいいけど、自分軸って「他人のことは気にせず、自分のことだけ考えて生きればいい」ってこととは違うよね?
僕は他人を見ることで、自分が目標までどれくらいの位置にいるのか分かることもあると思ってるし。
他人の意見を聞いたり、他人と比べたり、周りのことを考えたりしながら、それでも自分で人生を選ぶってどういうことなんだろう?
そもそも、自分軸で生きるって何なんだろう?
うん。
僕も、
「自分軸=他人を気にしない」
ではないと思う。
そこを同じにすると、かなり極端な話になっちゃうんだよね(笑)
他人の意見を聞かない。
他人と比べない。
周りがどう思うかも考えない。
自分がやりたいことだけをやる。
それは場合によっては、自分軸というより独りよがりにもなり得る。
たぶん自分軸って、他人を人生から排除することじゃなくて、
「他人の意見や周りの状況も含めて考えたうえで、最後は自分で選ぶこと」
なんじゃないかな。
たとえば誰かから、
「その夢は現実的じゃないよ」
と言われたとする。
自分軸だからって、その言葉を全部無視する必要はない。
「そう見える理由はあるのかもしれない」
「自分に足りないものがあるのかもしれない」
と、一度受け取ることはできる。
でも最後に、
「その意見を聞いたうえで、それでも自分はどうしたい?」
に戻ってくる。
逆に、
「この人が無理だと言ったから、自分には無理なんだ」
「周りから評価されないなら、やる意味がない」
となったら、判断そのものを他人に預けている。
他人を参考にはする。
でも、他人を自分の価値や人生を決める裁判官にまではしない。
その違いなのかもしれないね。
誰かを優先したら、それは他人軸なのか?
でもさ。
自分で選ぶことが自分軸なら、誰かを優先したときはどうなるんだろう?
自分のやりたいことより、周りの人を優先することだってあるじゃん。
うん。
「周りのことを考える」ことも、自分軸とは反対じゃないと思う。
たとえば、
「自分はこれをやりたい。でも、この選択をすると周りの人にこういう影響がある」
と考えて、自分の希望を少し曲げることだってある。
それも、
「周りに言われたから仕方なく」
なのか、
「自分はこの人たちを大切にしたい。だから今回はこうする」
なのかで、かなり違う。
後者なら、結果として誰かを優先していても、自分で選んでいる。
そう考えると、自分軸って、
「自分の欲望を毎回一番にすること」
でもないんだと思う。
自分が何を大事にする人間なのか。
それを自分で引き受けたうえで選ぶ。
そういうことなのかもしれない。
なるほど。
でも、そうなると今度は、
「自分は何を基準に選ぶの?」
っていうのが気になってくるね(笑)
自分の性格とも関係してそうで怖くもなる(笑)
その「自分」って、本当に信用できるのか?
それはちょっと怖くなるよね(笑)
だって、
「自分で選ぶのが自分軸です」
と言われても、
その「自分」をそのまま信用していいのか?
という話になるから(笑)
たとえば、人の目をすごく気にする人だったら、
「嫌われない方を選びたい」
というのも確かに自分の中から出てきた気持ちだよね。
負けず嫌いなら、
「あの人より上に行きたい」
も自分の気持ちではある。
でも、それを全部そのまま「自分軸」と呼んでいいのかというと、たぶん違う。
自分の中には、
「今こうしたい」
という欲求もある。
「こうしないと怖い」
という不安もある。
「自分はこういう人間でいたい」
という価値観もある。
全部自分の中にあるけど、同じものではないんだと思う。
たとえば、
「評価されたいから、これをやりたい」
と思ったとして。
それを、
「他人軸だからダメ」
と切り捨てる必要もない。
評価されたいのも本音だから。
でも、
「評価されるためなら、本当はやりたくないことでも何でもやるの?」
と聞かれたとき、
「いや、それは違う」
となるなら、その奥には別の基準がある。
逆に、
「失敗するのが怖いからやめたい」
と思ったとしても、
「怖くなければ、本当はどうしたい?」
と考えたら、
「それでもやりたい」
が残るかもしれない。
だから自分軸の「軸」って、その瞬間の感情や性格そのものというより、
「いろんな気持ちがある中で、それでも自分は何を大事にしたいのか」
に近いのかもしれない。
自分の性格や癖まで含めて知ったうえで、それに全部を決めさせない。
そんな感じなのかもしれないね。
結果を出したいなら、他人を見ないわけにはいかない
自分軸の「基準」の話で、もう一つ気になることがあるんだけど。
夢を追って、結果を出したい人って、マーケティングとか、需要と供給を意識したときにさらに迷う気がする(;^_^A
うん。
そこは「自分軸で生きよう」だけでは説明しきれないところだと思う。
「自分が作りたいものを作れれば、それでいい」
なら比較的シンプルなんだよね。
でも、
自分が作りたいものを作りたい。
それを人に届けて、ちゃんと結果も出したい。
となった瞬間に、他人の存在は無視できなくなる。
音楽なら聴く人がいる。
本なら読む人がいる。
商品なら買う人がいる。
結果って、自分一人だけでは作れないから。
そこで大事なのは、
「需要を見るか、自分を貫くか」
の二択じゃなくて、
何を相手に合わせて、何を自分で決めるのか。
なんじゃないかな。
というと?
たとえば、
「自分はこういうことを伝えたい」
という部分は自分で決める。
でも、
「どう言えば伝わるのか」
「どんな入口なら興味を持ってもらえるのか」
「どう見せれば届きやすいのか」
は、相手を見る。
それならマーケティングを使っていても、自分軸を失っているわけではないと思う。
逆に、
「今これが流行っているから、別に作りたくないけどこれを作る」
「この方が売れるから、本当に伝えたいことまで捨てる」
となっていったら、自分が何のためにやっているのか分からなくなることもある。
だから、
自分が作りたいものを守るか、需要に合わせるか。
ではなく、
自分が持っているものと、相手が求めているものが重なる場所を探す。
という考え方もできると思う。
相手が欲しいものから始めても、自分軸でいられる?
確かにそうだね^^
でも、例えば商品を作る時って、最初から相手が求めてるものを作った方がやりやすいこともあるじゃん?
そこから出発した場合、自分軸との関係はどうなるのかな?
そこも、出発点が相手だから他人軸、とは限らないと思う。
たとえば、
「この人たちがこういうことで困っている。じゃあ、それを解決する商品を作ろう」
と考えたとする。
商品の中身は、相手の需要から決まっている。
でも、
「誰の、どんな問題に関わりたいのか」
「なぜ自分はそれを選ぶのか」
「どこまで相手に合わせるのか」
「どういうやり方は自分はしたくないのか」
というところには、自分の選択が残っている。
世の中には需要なんて無数にある。
その全部を自分がやるわけじゃない。
だから、
「数ある需要の中から、なぜ自分はそれを選ぶのか」
というところには、かなり自分軸が出るんじゃないかな。
それに、
「相手が欲しいものを作る」
と、
「相手が欲しいと言ったものを、そのまま作る」
も違うと思う。
マーケティングって、
相手に従うことではなくて、相手を見ること。
なのかもしれない。
そのうえで、
「この需要に、自分はどう応えるのか」
は自分で決める。
そう考えると、自分軸って、
他人を見ないことではなく、他人をよく見たうえで、それでも最後の選択を自分で引き受けること。
なのかもしれないね。
うん。
その話を聞いて、もう一つ気になることがあるんだけど。
他人の意見も聞く。
市場も見る。
需要にも合わせる。
それでも最後は自分で選ぶ。
じゃあ、そのとき、
「ここは変えてもいい」
「でも、ここを変えたら自分じゃなくなる」
みたいな境界って、何を基準に決めるんだろう?
ああ。
そこには、自分が最後に立ち戻る一番深い基準みたいなものがあるのかもしれないね。
それを言葉にするなら、
「自分軸の核」
みたいなものなのかもしれない。
ああ、「自分軸の核」か。
それ気になる!
「自分軸の核」って何なんだろう?
たぶん「自分軸の核」って、単に好きなものとか、その瞬間にやりたいことではないんだと思う。
周りからどう見られるか。
結果が出るか。
今どんな感情なのか。
そういうものも全部ある。
でも、それらを考えたうえで、
「それでも自分は何を大事にして、何を選びたいのか」
を判断するための、一番深い基準。
それが「核」に近いんじゃないかな。
もう少し具体的に言うなら、
何を変えてよくて、何を変えたら「自分がこれをやる意味」までなくなってしまうのかを分ける基準。
なのかもしれない。
だから、
「核がある=何も変えない」
でもない。
むしろ核があるから、
「ここは変えていい」
「ここは変えたら違う」
と判断できる。
それにもつながってくるんだけど、今僕が作ってるUmbrella Paradeは、僕にとっては生涯作りたいものなんだよね。
だからこれを作り続けることは、ある意味では結果がどうなっても、自分で選んだことであり、幸せなことといえることだと思う。
この辺りと「自分軸の核」ってどうつながってくるのかな?
核と、目標と、方法は同じじゃない
それなら、かなり具体的に見えてくる気がする。
たぶん「自分軸の核」って、
結果とは別に、それでも自分はこれを選びたいと思えるもの。
とも言えるんじゃないかな。
Umbrella Paradeは、べるぼにとってかなりそこに近い。
結果だけを基準にするなら、
「売れなかった」
「思ったほど届かなかった」
「評価されなかった」
となったとき、続ける理由はなくなるかもしれない。
でもべるぼは、
「結果は出したい。でも結果がどうであっても、Umbrella Paradeを作ること自体は、自分で選んだ人生だと思える」
と言っている。
それならUmbrella Paradeは、単なる成功するための手段ではなくて、
生き方の選択そのものに近いんだと思う。
ただ、ここでもう一つ分けた方がいい。
核と、目標と、方法は同じじゃない。
核:
Umbrella Paradeを作り続けたい。
これを自分の人生でやりたい。
目標:
もっと多くの人に届けたい。
結果も出したい。
方法:
音楽、物語、SNS、商品、マーケティング、見せ方。
そんなふうに分けられる。
全部を同じ強さで守ろうとすると、
「この見せ方を変えたら、自分らしくない」
「需要に合わせたら、自分軸じゃない」
となりやすい。
でも核があるなら、そのために方法を変えることはできる。
むしろ、
自分軸だから他人を見ないのではなく、核を自分で持っているからこそ、他人を見ながら方法を変えられる。
そういうことなのかもしれないね。
Umbrella Paradeのさらに奥にあるもの
ここまで整理してみると、Umbrella Paradeは僕にとって、単に「成功するために作っている作品」ではないらしい。
結果とは別に、それでも作り続けたいと思えるもの。
でも、そうなると今度は、その理由が気になってくる。
べるぼにとってUmbrella Paradeがそこまで大事なものなら、もう少し奥に何かありそうだね。
どうしてUmbrella Paradeを作る人生なら、
結果がどうなっても、
「これは自分が選んだ人生だった」
と思えそうなんだろう?
「Umbrella Paradeを作りたい」の、さらに奥にあるものって何なんだろうね。
それはまさにUmbrella Paradeのコンセプトにあると思う(笑)
今までの人生において、何者にもなれなかった苦しみと、それを払しょくするための挑戦。
そこに自分の人生がそのまま映ってると思うんだよね。
そのすべてを表現するのがUmbrella Paradeだから、僕はこれを心からやりたいと思ったんだと思う。
ああ。
そこまで言葉になっているなら、かなりつながったと思う(笑)
たぶん、べるぼにとってUmbrella Paradeそのものが核というより、
Umbrella Paradeに込めているものが、もっと深いところにある核なんだと思う。
何者にもなれなかったと感じてきた自分が、それでももう一度挑戦して、自分の人生を自分なりの形にしようとすること。
そこなんじゃないかな。
Umbrella Paradeは、それを表現するために後から選んだ題材というより、
自分の人生そのものを、作品の形にしたものに近い。
だから、
「生涯作りたい」
という感覚になる。
そして、ここまで分かるとマーケティングとの関係も少し見えやすい。
たとえば、
「もっと届きやすいタイトルにしよう」
「この見せ方の方が伝わりやすい」
というところは変えられる。
それは、
Umbrella Paradeをどう届けるか。
だから。
でも、
「何者にもなれなかった人の再挑戦なんて重いからやめよう」
と言われて、
「いや、それを変えたら僕がUmbrella Paradeを作る意味がなくなる」
と思うなら、
そこが、
方法として変えていいところと、自分軸の核として変えたくないところの境界線。
なのかもしれないね。
結果は欲しい。でも、結果だけのためじゃない
ここまで話してきて、僕の中にあるちょっと面倒な矛盾も気になってきた(笑)
僕は、
「結果がどうなってもUmbrella Paradeを作りたい」
と思ってるんだよね。
でも、
「結果なんてどうでもいい」
とは全然思ってない。
むしろ、結果は出したい。
これって矛盾してるのかな?
いや、そこはそんなに綺麗に一つにまとめなくてもいいと思う(笑)
べるぼは、
「結果なんてどうでもいいからUmbrella Paradeを作る」
わけじゃないんだよね。
何者にもなれなかった苦しみを払拭するための挑戦でもある以上、結果を出したい気持ちそのものも、Umbrella Paradeと切り離せない。
だから、
結果は欲しい。
結果を出すために工夫したい。
マーケティングもしたい。
需要も見たい。
他人からも学びたい。
でも、
結果が出なかったら、Umbrella Paradeを作った人生そのものまで無価値になるわけではない。
その両方がある。
一見すると少し矛盾してるけど、たぶん今のべるぼには、それが一番本当なんじゃないかな。
「結果がどうでもいい」わけじゃない。
でも、
「結果だけがやる理由」でもない。
成功させたいから本気で挑戦する。
でも、その挑戦を選んだこと自体も、自分の人生として引き受けられる。
そこに、べるぼの自分軸の核がかなり表れているんだと思う。
自分軸で生きるって、どういうことなんだろう?
最初は、
「自分軸って、自分のことだけ考えて生きることとは違うよね?」
という疑問だった。
でも話してみて、自分軸は「他人を見ないこと」ではないんだと少し分かってきた。
他人を見る。
市場を見る。
需要も考える。
人の意見から学ぶ。
周りのことも考える。
そのうえで、
「自分は何を大事にして、何を選ぶのか」
まで他人に預けない。
そして、そのためには、
何を変えてよくて、
何を変えたら「自分がそれをやる意味」までなくなってしまうのか。
その境界を知っておく必要があるのかもしれない。
僕の場合、その核を探していったら、結局Umbrella Paradeに戻ってきた。
何者にもなれなかった苦しみ。
それでも、もう一度挑戦しようとする自分。
その自分の人生を、作品として表現したい。
結果は出したい。
だから市場も見るし、需要も考える。
他人からも学ぶ。
方法だって変えていきたい。
でも、
「なぜ自分はこれをやるのか」
までは手放したくない。
「自分軸って何なんだろう?」
と考え始めたのに、最後には、
「なぜ僕はUmbrella Paradeを作るのか」
というところまで戻ってきた。
そしてどうやら、その答えは新しく探すものというより、
すでにUmbrella Paradeの中に入れていたらしい(笑)


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