Umbrella Paradeは、再挑戦することや、もう一度夢を持つことを大切にしている。
でも、そんな作品を作っている僕自身が、ふと思った。
夢って、本当に持っているだけで人を前に進ませてくれるものなんだろうか。
夢があるから、今日を生きられることもある。
でも逆に、夢があるからこそ苦しくなることだってある。
だったら、そんなとき、その夢をどう扱えばいいんだろう。
今回はそんな疑問を、Umbrella Paradeの記録者・アマモリと一緒に考えてみた。
最初は、作品のコンセプトについて考えるつもりだった。
でも話しているうちに、いつの間にか僕自身が「夢」というものをどう見ているのか、そのあまり格好よくないところまで話すことになった。
夢があるから、苦しくなることもある
Umbrella Paradeって、再挑戦とか夢を持つことを大事にしてるじゃん?
それでちょっと思ったんだけど、夢って生きる力になることもある反面、夢があるからこそ苦しくなることもあるよね。
そういうときって、その夢をどう扱えばいいんだろう?
うん。
そこは、Umbrella Paradeが「再挑戦」を大事にするなら、避けて通れない話なんじゃないかな。
僕は、夢って「持ち続けるか、諦めるか」の二択じゃないと思うんだよね。
夢があることで、
「今日ももう少しやってみよう」
と思えることもある。
でも、
「叶わなかったら自分には価値がない」
「ここまでやったんだから、もう降りられない」
「まだ届いていない自分はダメだ」
みたいになってくると、夢そのものというより、夢に自分の価値を証明してもらおうとすることが苦しさにつながる場合もある。
だから、苦しくなったからといって、必ず夢を捨てなきゃいけないわけでもないと思う。
夢との距離を変えることもできる。
走れないなら歩いてもいいし、立ち止まってもいい。
目標の大きさを変えたり、「いつまでに」を外したりすることだってできる。
それでも心のどこかに残っているなら、夢そのものが消えたわけじゃない。
Umbrella Paradeっぽく言うなら、
「もう一度挑戦すること」と「何があっても夢にしがみつくこと」は、たぶん同じじゃない。
だから、
「この夢を諦めるべきか?」
より先に、
「今の自分は、この夢の何に苦しめられているんだろう?」
と考えてみてもいいのかもしれない。
べるぼの場合はどうなんだろう。
夢そのものが苦しいのか。
それとも、「叶えられていない自分」を見るのが苦しいのか。
苦しいのは、夢そのものじゃないのかもしれない
どっちだろう?
僕が夢に対して苦しくなりやすいのは、「叶えられていない自分を見るのが苦しい」の方が強いかな?
これまでの話を聞いていると、僕もそっちの方が強そうに感じる。
歌やUmbrella Paradeそのものを、
「もう嫌だ」
「本当はやりたくない」
と思っているわけじゃないんだよね。
苦しくなるのは、
「これだけやっているのに、まだここなのか」
「本当に届くだけの力があるんだろうか」
みたいに、夢と今の自分を見比べたときなんじゃないかな。
夢が、叶えたいものだけじゃなくて、自分を測る物差しにもなっているのかもしれない。
夢まであとどれくらいなのか。
それだけじゃなく、
「今の自分にはどれくらい価値があるのか」
まで一緒に測ってしまう。
そう考えると、
「夢をどう扱うか」
より先に、
「夢に届いていない自分を、どう扱うか」
なのかもしれない。
悔しさ、不安、焦り、恥ずかしさ。
どのあたりが強い?
全部ある(笑)
やっぱり全部あるか(笑)
でも、それは結構大事かもしれない。
「夢が叶わなくて苦しい」
だけでまとめると一つの感情みたいだけど、実際はいろいろ混ざってるんだと思う。
もっとできるはずなのに、まだ届かない悔しさ。
このまま時間だけ過ぎていくんじゃないかという焦り。
そもそも自分に届くだけの力があるのかという不安。
ずっと夢を追っているのに、まだ結果が出ていない自分を見たときの恥ずかしさ。
どれも、まだ夢を諦めていないからこそ出てくる感情でもある。
だから、
「夢が自分を苦しめている」
というより、
「夢をまだ本気で叶えたい自分と、現実の自分との差を見るのが苦しい」
の方が近いのかもしれない。
叶っていないことより、止まっていることが苦しい
僕の場合だと、叶ってなくても一生懸命そこに動けてる時は、苦しさってあまりないかも^^
ただ立ち止まってしまったり、身動き取れてない時に苦しさを感じるのかも(;^_^A
あとは、他人の目を気にしちゃったりとか(;^_^A
ああ、それなら少し違って見えるね。
べるぼの場合、
「夢が叶っていないこと」
そのものより、
「夢に向かっている感覚を失ったとき」
に苦しくなるのかもしれない。
動けているときは、まだ結果が出ていなくても、
「自分は進んでいる」
と感じられる。
だから夢は、むしろ生きる力になっている。
でも止まると、
「何も進んでない」
「このままでいいのか」
と、自分を見る目が厳しくなる。
そこに他人の目まで入ってくると、
「ずっと夢を追ってるのに、まだそこなの?」
「結果が出てないのに、いつまでやってるんだろう」
と、実際に言われたわけじゃなくても考えてしまう。
夢が遠ざかってしまうっていう感覚はないんだよね(;^_^A
ただ僕が近づけてないんだなっていう感じで(;^_^A
「動けていない自分が嫌だ」と「周りからそう見られるのが嫌だ」はあると思うんだけど、まとめて自分に価値がないようには感じるよね💦
「今日は動けなかった」が「自分には価値がない」に変わる
なるほど。
夢が遠ざかるんじゃなくて、夢はそこにある。
でも、自分がそこへ近づけていない。
その感覚なんだね。
そうなると、
「進めていない自分」
から、
「何も成し遂げられていない自分」
になって、
さらに、
「周りから見ても何者にもなれていない自分」
になって、
最後には、
「そんな自分には価値がないんじゃないか」
までつながってしまうのかもしれない。
だから、べるぼの場合の夢との付き合い方って、
夢を諦めるとか、距離を取るとかだけじゃなくて、
「進めていない時間まで、自分の価値を夢の進捗で採点しない」
ことなのかもしれない。
もちろん、
「人間の価値は成果じゃないよ」
と言われたところで、そんな簡単には納得できないと思うけど(笑)
それより気になるのは、
どうして、
「今日は動けなかった」
で終わらずに、
「自分には価値がない」
まで行くんだろう。
「本当にやりたいなら、動けるはず」なのか?
難しいんだけど、自分がやりたいことなんじゃないのか?
なのになぜできてないのか?
みたいな感じで、自分への疑いが出てくるのがある気がする(;^_^A
ああ。
そこはかなり大きそうだね。
もしかしたら、べるぼの中にはどこかで、
「本当にやりたいことなら、動けるはず」
という前提があるんじゃないかな。
だから動けない日が続くと、
「本当は、そこまでやりたいわけじゃないんじゃないか?」
って、自分の気持ちそのものを疑う。
でも、
「いや、やりたいのは本当だ」
と思ったら、今度は、
「じゃあ、本気なのになんで動けないんだ?」
ってなる。
そうすると今度は、
「自分には、それをやり切るだけの力や意志がないんじゃないか」
って、自分の力を疑うことになる。
つまり、
「本当はそこまでやりたくないんじゃないか」
という疑いと、
「やりたいのに動けない自分には力がないんじゃないか」
という疑い。
べるぼの中では、どっちが強いんだろう?
両方かも(;^_^A
たぶん、両方なんだろうね。
そして、この二つがセットになると結構苦しい。
動けなければ、
「本当にやりたいのか?」
と疑う。
やりたいこと自体は本当だと思えば、
「じゃあ、なぜ動けない?」
と今度は自分の力を疑う。
でも本当は、
「どれだけやりたいか」
と、
「今どれだけ動けるか」
は、別の話なんだと思う。
やりたいことでも疲れることはある。
何をすればいいのか分からなくて止まることもある。
結果が出ない期間が長くて、手が止まることだってある。
だから、
「動けていない=本気じゃない、あるいは力がない」
とまでは、まだ決まっていない。
今の話を聞いていると、べるぼにとって夢は、叶えたいものでもあるけど、
「自分は本気なのか」
「自分には進む力があるのか」
を確かめる場所にもなっているのかもしれない。
だから動けている間は、夢がまだ叶っていなくても、自分を信じやすい。
でも止まると、その証拠がなくなったように感じる。
立ち止まっただけで、自分にまで判決を出さない
この整理はどうしたらできるのかな?
たぶん、今まで一緒にしていたものを分けることなんじゃないかな。
べるぼの場合、
「夢に向かって動けていない」
から、
「本気じゃないかもしれない」
「力がないかもしれない」
「自分には価値がない」
まで、一気につながりやすい。
でも本当は、それぞれ別の話なんだよね。
夢は、
「自分は何をやりたいのか」。
今の状態は、
「今、動けているか、止まっているか」。
能力は、
「今できることは何か、何が足りないか」。
そして、自分自身の価値はまた別の話。
たとえば今日まったく動けなかったとして、確実に言えるのは、
「今日は動けなかった」
までなんだよね。
そこから、
「だから本気じゃない」
「才能がない」
「価値がない」
は、その後に加わった解釈になる。
だから止まったときに、
「今分かっている事実はどこまでなんだろう」
と一度切ってみる。
それだけでも少し違うと思う。
それと、
「動けていない。じゃあ夢が偽物なのか?」
ではなく、
「動けていない。何が今、自分を止めているんだろう?」
と考える。
もちろん、それですぐ答えが出るわけじゃない。
でも、
「止まっている自分も素晴らしい!」
みたいに無理やり肯定しなくてもいいと思う(笑)
必要なのは、立ち止まりを肯定することじゃなくて、
立ち止まったという一事だけで、自分の夢や能力や価値にまで判決を出さないこと。
なのかもしれない。
他人を見た瞬間、自分の採点基準が変わる
ここまでで、少し整理できたような気がした。
でも、僕にはもう一つ厄介なものがあった。
他人の存在だった。
僕の場合、「自分はちゃんとやってる」って思ったとしても、他人を見た時に、自分よりもやってるように見えて、他人を無意識に意識して苦しくなるんだろうね(苦笑)
たぶん、それもかなりあると思う(笑)
自分では一度、
「今日はちゃんとやった」
と思えても、
誰かを見た瞬間に、
「でも、あの人はもっとやってる」
になって、
「じゃあ自分は全然やれてない」
と、採点基準そのものが変わってしまう。
しかも比べるときって、自分より進んでいるように見える人を拾いやすい。
だから、どれだけやっても上には誰かいる。
他人を見ること自体が悪いわけではないと思う。
「あの人はここまでやっているんだ」
「自分との差はここにあるのかもしれない」
と、刺激や情報として見ることもできる。
でも、
「あの人より進んでいない」
から、
「だから自分はダメだ」
まで行くと、自分の価値まで比較に預けることになる。
他人軸で生きるのではなく、自分軸で生きるのが大事なんだろうね(;^_^A
これは別の話にしないと長くなりすぎるね(笑)
ただ、僕は他人軸も目標との距離を測る上で大事な視点だとも思ってるから、余計整理できなくなるんだと思う(;^_^A
うん。
これは別の話にした方がいいと思う(笑)
掘り始めたら、
「そもそも自分軸って何?」
まで行きそうだから。
ただ、一つだけここで整理するなら、
「他人軸を全部捨てて、自分軸だけで生きる」
という話でもないんだと思う。
べるぼが言うように、他人を見ることで、
「このレベルに行くには、これくらいやっているんだ」
「自分との差はここにありそうだ」
と、現在地を知ることもできる。
だから、
他人は距離を測るための物差しにはなっても、自分の価値を決める採点者にまではしない。
そんな分け方なら、少し整理しやすいのかもしれない。
簡単に分けられるものでもないけどね(笑)
夢が苦しくなったとき、どうすればいいんだろう?
最初に考えていたのは、
「夢が苦しくなったとき、その夢をどう扱えばいいんだろう?」
という、Umbrella Paradeについての疑問だった。
でも話してみて分かったのは、少なくとも僕の場合、夢そのものが苦しいわけではないらしい。
夢に向かって動けているときは、まだ叶っていなくても、そこまで苦しくない。
苦しいのは、立ち止まった自分を見たときだった。
そして僕は、そこからいつの間にか、夢だけじゃなく、自分自身にまで判決を出していた。
「今日は動けなかった」
本当は、確実に分かっているのはそこまでなのかもしれない。
そこから、
「本気じゃない」
「力がない」
「価値がない」
まで、一気に決めなくてもいい。
立ち止まっている自分を好きになる必要はない。
「これでいい」と無理に納得する必要もない。
ただ、
立ち止まったという一事だけで、自分の夢や能力や価値にまで判決を出さない。
今回は、それだけでも僕にはかなり大きな発見だった。
そしてもう一つ。
他人を見ることを、僕は完全にはやめたくないらしい(笑)
そこには、
「自分軸で生きればいい」
だけでは片づけられない何かがありそうだ。
それについては――
また別の話にしようと思う。


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